カイロ は、エジプトの首都である。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つである。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市である。
概要
ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。都市自体の人口は675万8581人(2006年)、近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である。2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第49位の都市と評価されており、アフリカの都市としては第1位であった。またプライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、カイロの2008年の都市GDPは1450億ドルで、世界第42位、アフリカでは第1位である。
エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ南端、要に位置し、河谷を流れてきたナイル川がデルタを形成する、その先端に位置する。エジプトはナイル河谷地方の上エジプトとデルタ地方の下エジプトとに古代エジプト以来2分されているが、その両者の接点にカイロは位置する。イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。
日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラ(القاهرة ; al-Qāhira、現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスル という通称がよく用いられる。
カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。
歴史
古代
古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、新王国時代には廃墟となっていた。
アケメネス朝の時代に現在のバビロン城のあるところに砦が築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。
イスラム帝国時代
イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト支配の拠点となった。
9世紀にはいるとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、すでにアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。
カイロ市の成立
フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、この時点ではカイロには政治機能しか与えられておらず、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。政治都市の方は、カーヒラ(カイロ)と呼ばれ、経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれるようになった(元々フスタートもミスルと呼ばれていた)。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で学問を奨励し、光学のイブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出してイスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。
ファーティマ朝は12世紀に入ると混乱を極めるようになり、十字軍にも有効な手が打てなかった。十字軍国家であるエルサレム王国はたびたびファーティマ朝に侵攻し、ファーティマ朝はエルサレム王国に貢納することで平和をあがなったが、1168年には貢納の不払いを理由にエルサレム王国のアモーリー1世軍がエジプトに侵攻したのに対し、宰相のシャーワルはフスタートを焼き払って焦土戦術を取った。フスタート市民はカイロに逃げ、以後カイロは商業都市として発展を始めることとなった。1169年にはザンギー朝の部将シールクーフがカイロに入城したが、わずか2ヵ月後に急死し、かわって甥のサラーフッディーンが実権を握った。
1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。
しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。
旧市街
新市街から東には旧市街(イスラーム地区)が広がる。この地区はファーティマ朝時代に建設された本来のカイロにあたる地域である。旧市街北部にはアズハル・モスクと988年に創立されたイスラム世界最古の大学であるアズハル大学がある。アズハル大学の隣には1382年に宿場が作られて以来大規模なスークとなっているハーン・アル=ハリーリーがあり、現在では土産物屋が軒を連ね、観光名所となっている。旧市街のメインストリートは市街中央を南北に結ぶムイッズ通りである。ここにはファーティマ朝時代道の東西に宮殿が建っていたことから、バイナル=カスライン(二つの宮殿の間)とも呼ばれる。
旧市街南部、モカッタムの丘にあるシタデルは、1176年にアイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーンが築いた王宮であり、その後のマムルーク朝やオスマン帝国の時代も使用され、19世紀半ばにアブディーン宮殿が建設されるまで700年近くカイロの政治の中心だった。ここには、ムハンマド・アリーモスク(ガーマ・ムハンマド・アリー)が建設されており、市内のランドマークとなっている。シタデルをはさむようにして市街の東側に南北に伸びているのが死者の街と呼ばれる墓地である。エジプトの墓地は屋根のついた家のようなつくりになっており、貴重なものも多く世界遺産に登録されているが、カイロの急拡大にともなって市街地に収容し切れなかった人々が墓へと住み着き、2万人が居住しているといわれる。シタデルの西は古いカターイーの町のあった辺りであり、イブン=トゥールーン・モスクなどが建っている。